酒場遺産
ディープジャパン。今や都市開発の中で消えようとしている古くから続く酒場。日本の生活文化が凝縮されている酒場を「酒場遺産」と名づけた。これから十年後、ここで紹介する酒場のうちいくつが残っているだろうか。
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はるのや(南千住放浪食堂)
北千住の引き込み線沿いを歩き西側に行くと、様子は一転して鄙びた様子となる。山谷から流れてきたらしい酔った労務者がふらふらと歩いている。ふと見つけた「はるのや」という名の食堂にはいる。店主の親爺と、酔った客がひとり、何か楽しげにはなしている。この掛け合い漫才のような話に引き込まれ、結局、食事の後酒も奢ってもらい、三時過ぎまでこの店にいた。(志)


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店主は、一八才の時から浅草千束通りあたりで修行してこの店を親から引き継いだらしい。五四才という。客は六〇才くらいだろうか、墨田区で小さな工場の社長をしているらしい。従業員が二四才のワカされ木偶念願でなくなり、その一周忌の帰りだという。楽しい呑み会だった。下町ならではの・・・。そして五〇〇円の定食は、ご飯、みそ汁、うどんに混み、鮭の塩焼き、お新香、大粒の藁納豆。酒を一合板の無が旨い酒ではなかった。三増酒だろう。酎ハイも一杯。

店を出て、草津湯の裏にあるという長屋を探すがそれらしいものはなかった。回向院。以前このあたりは小塚原刑場という首切り場だったという。このあたりは人骨が三段に埋まっていて、土を掘ることが避けられているという。この寺の前の通りもコツ通りと言うが、元々「骨通り」と書いたという。そして浄閑寺。昔、吉原の遊女が死んだときに投げ込み同然で捨てられたことから、この俗称がついたのだという。はるのやの店主によれば、このあたりの土地には遊女にまつわる悲しい話がたくさんあるらしい。泪橋という地名は、処刑される男と遊女がこの箸で別れさせられたことから来るのだという。山谷という地名も、元々「三家」と書き、死体処理を排他的に行った三つの家を指した地名だという。それがいつの間にか山谷と書かれるようになったらしい。
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body> このごろ酒場や居酒屋の本が充実してきました。私は太田和彦氏、吉田類氏、大川渉氏の本を愛読しています。中でも大川渉氏らの著した「下町酒場巡礼」は名著。紹介されている酒場の幾つかはこの10年間に姿を消しました。 https://www.fis.jfma.or.jp/fis/front/htm/research/scm10/image/scm10_2003wwp_dallas_illust.pdf