酒場遺産
ディープジャパン。今や都市開発の中で消えようとしている古くから続く酒場。日本の生活文化が凝縮されている酒場を「酒場遺産」と名づけた。これから十年後、ここで紹介する酒場のうちいくつが残っているだろうか。
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はるのや(南千住放浪食堂)
北千住の引き込み線沿いを歩き西側に行くと、様子は一転して鄙びた様子となる。山谷から流れてきたらしい酔った労務者がふらふらと歩いている。ふと見つけた「はるのや」という名の食堂にはいる。店主の親爺と、酔った客がひとり、何か楽しげにはなしている。この掛け合い漫才のような話に引き込まれ、結局、食事の後酒も奢ってもらい、三時過ぎまでこの店にいた。(志)


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銀座三州屋(銀座並木通 ビル隙間奥)
銀座のファッショナブルな並木通りの商業ビルの隙間に、奇跡のように挟まっている居酒屋がある。その路地を入ると異空間。昨年の年末の夜にこの店を訪れた。年末三十日の三州屋は人で一杯。人気の店。相席の狭い席で、ビール、熱燗、マグロぬた、フライ盛り合わせ。どれも絶品だった店は満杯だった。分厚い白木のカウンターに旨い料理が運ばれてくる。二階の座敷も落ち着いて時間がたつのを忘れる。

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鳥もと(荻窪北口バラック)
 JR荻窪駅で降り、北口へと階段を上がってすぐ左側に「鳥もと」がある。大きく鰻と焼き鳥と書いてあるが、もっぱら焼き鳥を出す店である。中央線沿いに住んでいたので、丸の内線沿線で仕事があるとその帰りに、よく荻窪で乗り換えこの店で酒を呑んだ。古くなった緑色のテントの下は、ビニルカーテンに覆われた半外部的な空間で、夏は夜風に吹かれながらのビールと焼き鳥、冬はもうもうと立ち上がる鍋の蒸気と焼き鳥の煙りに包まれながら焼き鳥と熱燗で一杯、というのが楽しみだった。 (志)
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いせや本店(吉祥寺創業七十年酒場仕舞屋風)
 吉祥寺連雀通りの「いせや本店」である。アップタウン吉祥寺の連雀通りを井の頭公園方面へと歩くと、駅からほんの2分ぐらいの距離に、休日の真っ昼間からもうもうと焼き鳥の煙り立つ「いせや」の雄姿が見えてくる。瓦屋根に立派なつくりの割に崩れそうな木造2階建ての純日本風の建築である。(志)
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幸兵衛(立川錦町極小空間 絶品焼豚)
国立から羽衣商店街を立川に向かって歩いていると、偶然に昼間から扉を開け放している居酒屋が目に入った。目に入った同時に、これは本物だと直感した。比較的新しいビルの一角に入っているのだが、本物の酒場のオーラが立ち上っていたのである。ビルの角の1階の非常に小さなスペースで、男達五~六人が昼から酒を呑んでいた。

しばらく店の外から中をうかがってから、暖簾をくぐってはいると、カウンターに座っている、酒でかなりいい気持ちになっている紅一点の姉さんが「何か怪しい人かと思ったよ。この人なんか顔を隠していたんだよ。」と言って、カウンターで競馬中継に夢中になっている男のひとりをからかう。私は、常連ばかりが集まるというこの店に突然入った。こんなことは珍しいのか、初めはお客さん扱いだったが、段々と酒が入りうち解けていった。「この店は立川で一番汚い店なんだ。」と客のひとりが自慢げに言う。

 カウンターの女将さんは六十歳くらい、以前は毎日開店していたのだが、体をこわしてから、土曜日と日曜日しか開いていない。営業時間も大体昼頃から、夕方はお客がいなくなったら閉めるんだよ、と言う。客は、ほとんど常連ばかりで、男は全員ギャンブラー、この時も五人の五十ー六十歳の男達が、野球帽を被って、中山卯月ステークスのテレビに向かって熱狂していた。ひとりカウンターの端に座っていた「紅一点」の姉さんも同年代で、近くでお好み焼き屋をやっており、女将さんとは息子が同級生だったとかで、この店の常連になっていると話してくれた。

三畳の極小空間
 この店の空間について触れたいと思う。店の広さは三畳ちょうどくらい。空間構成には全く無駄がない、と言うより、よくこれだけのスペースに厨房、収納、カウンター、八座席を詰め込んだものだと感心した。建物の角にあり、二方が道に面した開口となっている。カウンター席はL字型になっており、カウンターの席に座るのは、道から直接出入りしなければならない。季節がよいこともあってか、建具は開け放してあり、店と街の空間は一体化している。都市空間と内部空間が狭いが故に、図らずも一体感を持って、それがまたこの店の空間的な魅力となっている。

 それでもこの店の造りは、決して安普請ではない。小さな空間にしっかりと造り込まれた造作はキチンと計算されたもので、無駄がない。初めにつくりこんで、大切に使っていく。それは店の造作だけにでなく、料理への対応、お客に対するサービスにも通じるものと見た。魅力的な酒場は、どれほど古くなっても安普請の改装などせず、良いものを磨き込んで使い、時間の蓄積を味方にする。「古い、安い、旨い、媚びない」が、魅力的な無頼酒場の条件ならば、この「幸兵衛」はその見本だ。最小限の空間で、手を広げ過ぎず、自身のあるものだけを出す。カウンターに並ぶ女将自慢の惣菜、煙で燻されたメニューの木札、どれもとても素敵だった。

 店には当然のことながら客用トイレはなく、一旦店を出て、すぐ左に回ったところに、道から直接入るつくりになっているトイレがある。思い鉄の扉を横に引けば、そこに便房がある。氷も目の前のコンビニに買いに行く。しかも女将が買いに行くのではなく、常連のひとりを店に走らせる。焼酎をロックで飲む客はあまりいないのか、収納を減らすためか、すぐに溶けてしまう氷などおいていない。とても合理的でよく考えられている。狭いが故に、店で完結せず、街の機能と空間を上手に使っている。これが店の魅力になっているから面白い。

絶品の料理
 幸兵衛の料理はどれも絶品である。大袈裟ではなく、こんなに美味いものを出す酒場には滅多に出逢うことはない。メニューは数が限られていて、お通し三百円、焼き豚百円、焼き魚五百円のみである。飲み物はビール、ウイスキー、日本酒である。私は焼き豚を計四本、焼き魚にビールと焼酎のロックを呑み、勘定は二千円を超えなかった。出るときには、無料の梅干しをいくつか戴いた。モア・ザン・リーズナブルである。

 絶品の料理について説明したい。まずお通しだが、これはタケノコと蕗を煮込んだもので、特にタケノコは大切りにも関わらず、味が良く染みこんでいる。美味しい。焼き魚は、あまり見たことのないもので、女将さんに何の魚ですか、と訊いても、何だったかねえ、美味しそうだったんで市場で買ってきたんだよ、といった具合だ。しかし実際、その魚はとても美味かった。カウンターに、今日の分だけ十尾くらい積み上げてあった。

 女将が、焼き豚は塩とタレとどっちにする、と言うので、いつものように「塩で。」とたのんだ。すると、酔った男のひとりが「何で塩にしたんだ」と絡む。「素材の味が良さそうだからよ。」と答えると、馬鹿言っちゃいけない、ここの焼き豚はタレに決まっているんだ、と言う。それなら、初めからタレだけ出せばいいじゃない、と思ったが、結局、塩とタレと両方を頼んでしまった。

八四歳の一代目がつくる秘伝のたれ
 焼き豚は、塩も確かに素材の旨さを引きだしていてかなり旨かったが、男の言うとおり、タレはそれこそ絶品であった。「何、このタレは!」と言うのが初めの感想である。甘くなく、香辛料が利いていて、味が深い。初めは、酒を加えているのかなと思い、そう訊いてみたが、酒は入っていないと言う。何でも、この女将さんは二代目で、八十四歳になる一代目の秘伝のタレなのだという。女将さんもその作り方はよく知らず、今でも一代目の母親から貰うのだという。

 一代目は、高齢でもまだ現役で、多摩でもう一軒の「幸兵衛」を開いている。立川から新しくできたモノレールで多摩動物公園行きに乗り、帝京大学で降りて住宅地を五分ほど歩いたところにあるらしい。こちらの方は、日曜日以外夕方の五時から十一時まで開いていると言う。電話を教えてくれた。0426-77-6331。今度行ってみることにした。

戦後の創業から区画整理へ
 女将とカウンターの姉さんから、この店の成り立ちについて訊いた。店の創業は、今帝京大学で二軒目の店をやっている一代目が、戦後すぐに始めたものである。この店の場所から東側は、GHQの指定地であった頃である。しかし、店の客にアメリカ人はほとんどいなかったという。店の前の通りも、今は十m近い幅員があるが、当時はほんの二メートルの狭い道だったらしい。木村聡「赤線跡を行く」(ちくま書房)によれば、立川には戦後ふたつの進駐軍向けの接待所(RAA=Relaxation and Amusement Association)があり、当時、州崎(現在の江東区木場当たり)の大手の遊郭業者がこの地域に入り込み、設けたものであるという。この後にカフェー指定地となり、二十四軒の遊郭が軒を連ねていたという。この店は立川の米軍基地から、遊郭街へ続く道沿いにあったので結構、繁盛したらしい。当時は二軒先の下駄が大家の木造二階建ての建物の一角にあったが、二十年前の区画整理を機に、現在の鉄筋コンクリート造のビルに建て替えられ、道も拡がり街の様相は一変した。

 その頃、二代目が引き継いだと言うが、それ以来、二代目女将も店の常連客も、メンツが変わっていないらしい。木造二階建てだった当時から来ていたらしく、皆つい昨日のような調子で話す。

 「当時はみんな若かったよなあ。」と誰かが言う。歳をとっても、みんな野球帽を被って、少年のようにワイワイガヤガヤ楽しそうだ。みんな、見たところ五十~六十歳代だから、二十~三十歳台の頃か。永い時間を超えて、今でも当時の空気を残している。女将と常連達のための空間が、そのまま彼らの存在と共にここにある。

 この店の前を通りかかったときに、確かに何か訳の分からないオーラを感じた。そしてこの店には、開発の進む立川の街からタイムスリップした時空があった。その空気が街に滲み出していたのだ。(志)
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一平(立川錦町一丁目場末酒場)
立川錦町の細い商店街は、立川駅と国立駅の中間にある。商店街と言っても、小さな飲食店や美容室などと、その間に場当たり的に建てられたマンションやアパートが混在する、場末の雰囲気を漂わせた細い道である。立川駅南口から東へ向かい、広い羽衣大商店街を歩き、薬屋の角を斜め左の錦町商店街に入ったあたりは、戦後GHQの指定地域であり、その後、昭和三十三年に売春禁止法が施行されるまで、いわゆる赤線として受け継がれた場所である。今でも、昔風の洒落たカフェー風の建物が残っていたり、花柳流の稽古場があり、過去の記憶を僅かに残している。

取り残された一角
 錦町商店街を立川側から歩くと、途中、黄色い電車の南武線の踏切があり、それを越えると「日本自動車学校」という立派な名前の自動車教習所がある。その敷地内には、古ぼけた「最上食堂」が立つ。すぐ横を赤い中央線の快速が走る。錦町商店街の一帯は、開発著しい立川と、学園都市の国立に挟まれていながら、開発から取り残されているように見える。太い表通りには、背の高いビルが建ち並び、日照が遮られ、また中央線と南武線の軌道敷きに囲まれた騒音の酷い不人気な場所なのだろう。エアポケットのように、周囲から取り残されているように思えた。

 週末、時々近所を散歩して飲み歩く。錦町商店街は国立からほど近く何度か歩いたことがある。この通りと交差する路地沿いには、今にも崩壊しそうな四件並びの背の低い居酒屋があり、ずっと気になっていた。日も暮れたある日、立川からの帰り道、四軒のうち三軒にはあかりが灯っていた。昼間とは違ったオーラを発していた。その三軒の構えを見比べ、一番妖しいオーラを発している、左端の店「一平」に入る。「ビール五百円、日本酒四百円、その他各種お飲物あり。おつまみ三百円より各種。その他お客さまのご要望に応じて料理をお作りします。一平のお店にいらしたお客さまみなさまが、よいお友達になって下さい。そしてあなた様の生活が今以上に楽しく、また向上してくださることを願います。一平」

昭和二十六年創業
 狭い間口の一平の引き戸を開けようとするが、なかなか開かない。扉は割れたガラスを半透明の波板版で応急処置したままの状態で、戸車がレールに乗っていない。そもそも最近の店で、こんな戸車の引き戸は珍しい。ガタガタと、どうにか木戸を開け中にはいると、主人がやってきて、「すみません。私が閉めますから。」と言う。中は今にも倒れそうな店構えに比べて小綺麗な造りであった。右側にカウンターがあり、座れるのは最大五人。左側には畳の小上がりがあって四人まで座ることができる。カウンターはしっかりした造り。カウンター内の棚はベンガラ色に塗られ艶めかしい。

 この店は原田さん老夫婦が経営している。カウンター内で奥さんが、料理をつくっており、ご主人の原田さん、田園調布から来たという五十歳くらいの男、そして常連の老女がカウンター席に座って酒を飲んでいた。一番活発な男の客はしばらく主人と話した後、電車がなくなるからと帰っていった。そしてその後、焼き鳥と日本酒をゆっくり飲みながら、この店の歴史について聞いた。

立川南口馬券売り場にあったバー
 ご主人によれば、この店の前身であったバーは、今のJR立川駅南口とこの店の中間あたりにある馬券売り場、現在はのWINDSのあたりにあったという。道幅も狭く、たった二mほどだったらしい。その場所で戦後間もない昭和二十六年から、九人のホステスを抱えるバーを経営していたというから、かなり羽振りが良かったはずである。九人のうち三人は住み込みだったという。

 当時、立川錦町・羽衣町はいわゆる指定地であったから、米軍のお客を相手にしていたのだろう。現在七十歳を越え、穏やかでいい味を出しているご主人の原田さんも当時は遊び好きで、遊郭に通い詰めたらしい。「僕もいろんなことがあってねえ。」というご主人の話に、カウンターの奥さんは動じず渋い顔を崩さない。そして道路拡幅と区画整理で立ち退いた後は、現在の店がある元赤線地帯であるこの場所が、代替地として与えられたという。昭和六十年のことである。

 それ以来、二十年近くこの場所で店を構えてきた。ご主人に話では、南武線の踏切の手前からこのあたりまでが錦町の指定地、向こう側が羽衣町の指定地で、錦町の方がランクが少し上だったらしい。羽衣町はその後の開発で、当時の面影が全くなくなっているという。

一杯の美酒 平素安泰
 カウンターの後ろには、ご主人の書いたらしい色紙「一杯の美酒 平素安泰」が額縁に入っていた。若いときに遊び尽くしたご主人がこの小さな店へと移り、それから大事にしてきたものが、お客にとっての安息の場であることだという。人と人のつながりを大切にし、ご主人は「一平の会」というグループをつくり、多いときは百人を超えるメンバーで、季節ごとにバスをチャーターして旅行を企画したという。

 現在、「一平の会」は十数人に縮小してしまったけれど、それでもこの小さな店に来ていただいた客は、誰でも精一杯歓迎するのだという。そう話すご主人の笑顔はとても柔らい。私は何となく、この店を教会のような存在だと思った。私も二十歳代の頃、よく異国を旅したが、どんな場所でも教会だけは見知らぬ旅人を拒まずに受け入れてくれた記憶がある。そうした安息の場所が存在するというだけで、心が強くなるものだ。私自身はクリスチャンでも何でもないが、教会がどこにでもある西欧の国々を羨ましいと思ったことがある。「一杯の美酒 平素安泰」は、場末の小さな店ながら安息の場でありたいというご主人の想いを、精一杯に表しているように思えた。

延寿鶴とつまみ
 私たちがこの店で食したのは、マグロ刺しの突き出し、ハツ焼き四百円、塩辛二百円であった。そして「延寿鶴」という初めて聞く名前の酒(1合四百円)を熱燗で3合ばかり飲んだ。マグロの突き出しは赤身だが、上等なものであった。ハツ焼きは鳥のハツを油で炒めた家庭料理風にもので、素朴だがさりげなく旨かった。塩辛はスーパーなどで売っているビニル詰めのものだったが、一袋分丸々皿に盛ったので5人分くらいの量があった。これで二百円は、恐らく原価と変わらないだろう。特に旨くはなかったが、その素朴さが嬉しい。熱燗の延寿鶴は辛口端麗。銘酒とまでは行かないが、結構いける酒だ。ラベルを見ると茨城県に蔵元があるらしい。銘酒、アップにも載っていない酒だが、なかなか旨い酒だった。念のためインターネットで検索してみたが、該当するものはなかった。

 約二時間、酒とつまみを食し、主人夫妻と話しながら過ごしたが、勘定はたったの千五百円だった。お客は他に二人のみ。先に帰った男の勘定は千八百円だったから、一日の上がりはいくらなのか。そんなことを心配しても仕方ないと思うが、老夫婦がどうにか生きていけるだけの稼ぎはあるのだろうか。羽振りの良かった頃から段々と細くなって、いずれ消えゆくだろうこの店と一緒に、この老夫婦も消えていくのだろうかなどとと考えていたら、何だか悲しくなってきた。

男は放っておきなさい
 ご主人との話が、カウンター隣に座っていた女性に主人が話しかける。カウンターで渋く料理をつくっていた奥さんが急に能弁になった。「あんた、男はどんなことをしても好きなようにしか生きないんだよ。放っておくのが一番。」と言う。傍らのご主人は、参ったという顔で笑っている。人生いろいろあるからさ、あんまり喋らなくてもいいんだよ、と言う。何十年も山あり谷ありの時間を超えて、それでも夫婦であり続けているふたりの数少ない言葉は深い。

 永い時間を経て、この小さな店に至るまでの時間。それを思うと、この店がご主人夫婦の人生そのもののように感じられた。(志)
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最上食堂(立川羽衣町教習場食堂)
自動車教習所に建つ食堂
 以前、国立に住んでいた頃、よくこの道を散歩した。いつもその存在が気になっていた、モルタル造二階建ての古ぼけた建物である。教習場の前の通りには、「慶弔料理、お赤飯、オードブル、何でもあります 最上食堂」「一般の方もお気軽にお入り下さい。麺類・丼物・定食、何でもあります。ここを入る」の看板が建っていた。その佇まいからして、教習場に通う若者達が絶対に入りそうもない食堂である。この自動車学校は最近建て替えられたと見え、白系のタイル張りと大ガラス面が、いかにも近代的な様子で、このビルと横に並んでいる食堂のみすぼらしさが際だってしまう。

 実際、この食堂に三回訪ねたが、一度目は日曜日で休業、二回目は営業時間前で入れず、三度目の今回は少し遅めに言ったが、ちょうど今終わりましたと、二時過ぎに店を閉めようとしているところだった。実際この食堂は、営業時間が毎日十時半から二時までの間で、教習所の生徒の昼食を宛にしているようだが、工夫して儲けようという気など、全くないのだろう。私は、「今日で来るのが三度目なんです。」と言うと、暖簾を下ろしている若い従業員の女が、「ご飯がないんです。でも何かあると思いますが、いいですか。」というので、「ありがとう。」と礼を言い、店に入れてもらった。念願の最上食堂なのだ。

化石のような存在
 中にはいると、そこはまさに昔ながらの「食堂」であった。照明は暗く、中央に安物のテーブルが寄せて十台ほどおいてある。このライン場のテーブルの両側に丸椅子がザーと並んでおり、要は向かい合って座るようになっている。体育会の合宿とかで、向かい合わせで一団が座るような形式だ。これだけのスペースがあれば、テーブルをばらして置いた方が、客同士の視線もあわないし、何と言ってもお客のキャパを考えれば、誰だってそうするだろうと思う。この飯場のようなレイアウトは、何のためなんだろうと、不思議に思った。何十年の間、この食堂の人達は、何も不思議にも思わず、放置し続けてきたんじゃないだろうか。そしてやけに広い厨房。これだけのキャパならば、二階にある席を含めても、普通ならば、現在の広さの半分以下でも十分だ。仕出しでもしているのだろうか。でもそんな雰囲気ではない、というか厨房で働いている老婆二人と若い女の子ひとりでは、どうしようもないだろう。

 食堂の中には売店らしき物があり、長い間ここに置いてありそうな、色褪せた菓子類や日用品が並んでいる。よく地方の町の萬屋にあるような雰囲気だ。そして、壁にはおびただしい数の表彰状が飾ってある。よく見るとそれらは全て、警視庁からの感謝状など、警察関係ばかりであった。そう言えば、この食堂について電話会社で名前を調べていた時に、立川警察署の中にも最上食堂があった。恐らく警察とコネの強い食堂なんだろう。考えてみれば、自動車教習場も警察の管轄だ。この食堂の持つ、「場末感」のようなものを、やはり警察関係で感じたことがあることを思い出した。それは、以前、免許書き換えの時に訪れた府中の運転免許試験場近くに並ぶ代筆屋だ。教習場の回りには、たくさんのバラックのような代筆屋が並んでいて、免許書き換えの時など、その客寄せまがいの強引な呼び込みに閉口したことがある。恐らく彼らも、警察OBか警察に関係のある業者だろうが、ここと同じような臭いがあったことを思い出す。それは、一言で言えば、「暗さ」である。その暗さが、警察のまわりに漂うものなのか、たまたまそうだったのかは分からない。ただ、世の中に吹く風がここまではまわってこないような息苦しさと、禁欲と忍耐の末の諦めのようなものが、この空気をつくっているんじゃないかと漠然と考えていた。

 食堂に入ったときには、天井近くに儲けられた一台のテレビで、最近封切られた「浅間山荘事件」の関連番組がちょうど流れていた。これは、元警察官僚の佐々淳行氏原作による警察と機動隊の視点から書かれているノンフィクションで、そこに描かれている警察の空気が、ちょうどこの食堂とだぶって見えてきた。たまたまテレビで出演したのは、佐々の他、当時の指揮官の警察官僚と思われる人達であった。そうした面々とは対照的に、制度の隅で抑圧され、永い時間、澱のように溜まってしまった名もない警察官達の行き場のない気持ちの集積が、そうした暗さの源となんじゃないか。一瞬、そんな理由のない妄想に憑かれた。

老婆のつくるあり合わせの料理
 厨房で働くのはふたりの老婆である。恐らく定食か何かの余り物だろう、このところは見たことのないような、アイボリー色のプラスチック製の二つの皿に、色々な食べ物が盛りつけた合った。すっかり冷えた固くなった餃子、冷えてしまった鮪の切り身の焼き物、納豆、漬けすぎたお新香、白身魚のフライ、ちょっと変わった海苔の佃煮、ソース焼きそば。これらが少量ずつ盛りつけてある。出汁巻き卵だけは、結構美味しい。そしてご飯と、少し冷えたみそ汁。よく言えば家庭料理っぽく、悪く言えば工夫のない料理であった。でも、閉店時間後に入れてくれた、缶ビールを飲みながら、小一時間、浅間山荘事件の番組を見ながらくらい食堂で時間を過ごした。

 最上食堂は、料理を運んできた老婆に訊けば、「三十年以上はたってるよ。」というが、恐らくもっと古い歴史があるだろう。感謝状の横に、昭和十九年五月、鈴木金三郎を勲六等(宮城)とする、と書いてある天皇陛下による勲章の状がかけてあった。鈴木金三郎がいかなる人物かは分からないが、この食堂に関係のある人物なのだろう。老婆に訊いても、あまり語りたがっていないようだった。礼を言い、勘定の千四百円を払い食堂をで出た。何故かホッとして、新鮮な空気で深呼吸をした。(志)
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天七(北千住西口 串カツ立呑立喰)
北千住は常磐線、日比谷線・東武伊勢崎線、千代田線が乗り入れるターミナルである。綺麗な駅ビルが建ち、一軒近代風の街であるが、駅から出てちょっと歩けば、庶民的な飲み屋街の界隈がある。若者向けのお洒落なところと、昔ながらの下町が、古いものと新しいものが、気持ちよく入り混ざっているように見える。

路地を入れば
 西口側に降りるとすぐに飲み屋のひしめく路地がある。この街こそ私の探している酒場の宝庫だ、と直感する。すぐに「立呑処 アサヒビール 天七」「串カツ専門店、お勤めご苦労様、今日も串カツで一杯」と書かれた大きな臙脂色の暖簾が目にはいる。このところ、店構えと暖簾だけで自分達の探している種の酒場かが分かるようになってきた。暖簾の上には店の間口一杯の幅の大きな看板があり、酒の銘柄とともに「関西風串カツ、今日も串カツで一杯」とある。暖簾の下からは、開け放したサッシで、まだ四時だというのに立ち呑みの男達の脚が見える。

立ち食い立ち呑み
 暖簾をくぐるとすでに十人以上の男達がカウンターで串カツで酒を呑んでいた。この店の構造はちょっと変わっている。約六十平米ぐらいの正方形に近い平面の店内の中央には、串上げのためのキッチンがあり、白い割烹着を着た四人の中年の男と、紅一点、ひとりの若い女が、忙しそうに注文を取っている。串を焼いているのはそのうちのひとりで、串に刺さった具に、山盛りにされたパン粉を串にまぶし、そのまま油の煮えたぎっているステンレス製の串揚げ器につっこむ。取り出した串を、バチンとステンレスの板にたたきつけ、余分な油を切る。

 中央のキッチンを立ち呑みのカウンターが三方を囲む。座る席はない。お客のキャパシティは、道路側八,サイドが八,奥が十くらいだろう。土曜日だからだろうか、ほとんどはひとりで来ている客で、黙々と食べているが、若いカップルや、勤め帰りの会社員のグループもいる。カウンターは二段になっており、キッチン側の少し高いカウンター部分に串をおくためのステンレス製のトレイがおいてあり、客側の低いカウンターにはひとりにひとつづつ、ソースのたっぷりと入ったやはりステンレス製の深い容器と、キャベツの入った同じ形の容器が並べられている。このキャベツは食べ放題で、パリッとして旨い。店内には串のメニューの他、何種類ものアサヒビールの美人ポスターがたくさん張ってあった。

どれも旨い関西風串カツ
 私たちはたくさんの串カツのメニューから、レバー・牛カツ・レンコンをオーダーしたが、どれも相当に美味しかった。特にレンコンは歯応えがよく、味も悪くない。ちなみにこの店には、飲み物の他には串カツしかない。若鶏、メンチボウル、鰺、レンコン、豚カツ、牛カツ、ハム、ウインナー、レバー、イカ、キス、鶉、チーズ、ポテト、大蒜、玉葱、長ネギ、生椎茸、茄子、シシトー、ピーマン、お新香。全て、ひと串百二十円で、ひとりふた串からオーダーできる。店内の壁には、「ソースの二度付けはお断り。カウンターに肘をつかないで。」と書いてある。お客がみんなで使うソースに食べかけの串カツをつっこむなということだろう。しかしこれも性善説の上に成り立っている。「二度付け・・」の文言を見て、大阪梅田の駅構内にある串カツのスタンドバーを思い出した。以前、現場の仕事帰りに先輩に連れて行ってもらったことがあるが、やはり「二度付け禁止」の文字が大きく書かれていた。「肘をつかないで」というのは、肘をつくまで酔っぱらう前に店を引き上げろ、ということなのだろうか、と想像する。実際にカウンターは肘をつくには低すぎる。

 キッチンの作業をよく見ていると、串揚げというものは実にシンプルだ。素材を串に刺してパン粉をつけて油に浸けるだけである。素材が何であっても、工程は同じである。キッチンの道具もとてもシンプルだ。この商売はきっと初期投資が少なくて済むに違いない。さすが「関西風」と書かれているだけあって、店のつくり、容器の機能、キッチンのつくり、値段設定なども、大変合理的だ。業務プロセスがシンプルなのだ。店の人に灰皿をもらおうとすると、床に落としてください、といわれる。それを聞いて、粋だな、と思った。飲み物は、酎ハイ三百円、ハイボウル四百円、生ビール第七百円、中五百円、瓶ビール四百五十円。私と連れは、ビール大瓶と日本酒の熱燗を二合飲んだ。大関の一合瓶に入った呑みやすい酒だった。

三十年以上前からやっていた
 隣のサラリーマン風のグループの男が、突然話しかけてきた。「何か書いていたから取材かと思ったよ。」と言う。それをきっかけに話しているうちに段々とうち解けてきた。男は、もう三十年近く通い詰めているという。それ以前からこの店はあったが、最近まで酷く汚かったという。カウンターも道路側だけで、店自体、小さかったらしい。そのころの汚い店に是非来てみたかったと思った。今は店を改装して、裏通りには分店も設けて商売を広げている。男は、これからまた別の店で友達と呑むために待ち合わせているという。気楽にはいることのできるこの立呑処は、いわば街のウェイティングバーのようなものかも知れない。彼らと一緒に写真を撮ったりしているうちに、ほろ酔い気分になってきた。九百円の勘定を済ませ、風俗の呼び込みの男や女達が立つ喧噪の路地に出た。(志)
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永見(北千住西口居酒屋グルメ)
北千住西口すぐの路地に串カツの「大七」と小さな路地を挟んで、大衆酒場「永見」がある。一見、新しい店構えだが、寺のようにお札がべたべたと貼ってある。格子の窓から覗くと、とても庶民的で活気のある店内の様子が伺えた。これは、と思い中に入ってみれば、「いらっしゃいっ」と威勢の良い声が聞こえてくる。酒好きが集まってくる最上の酒場であることが分かる。壁に貼られた無数の手書きの紙のメニューが圧巻である。恐らく百種を越えているのではないかと思う。店の従業員に聞けば、この通りでは一番古い店で、創業して六十五年たつのだという。元々、戦前は酒屋だったものが、戦後、立ち呑み屋を経て、現在の酒場になったらしい。

店にはいると、土曜日のためかまだ五時過ぎだというのに、ほとんど満席で、入り口に近い厨房に向かって備え付けられているカウンター席では、ひとりで来ている常連とおぼしき男達が鮪のぶつ切りを旨そうにつついていた。入って手前左側と遠くのスペースには、テーブル席が並べられている。客のキャパはカウンターに約十五,手前のテーブル席が十二,奥は二十五くらいだから、一階全部で五十から六十席くらいだ。二階を合わせると百四十席くらいあるという。客層は、ひとりで呑んでいる常連の年輩者に加え、若い女性やカップルも多い。平日の夕方などは、通勤帰りのサラリーマンで混雑するのだろう。

 店に入ったところには、カウンターの上に招き猫と、無数の皿が積み上げられている。その上には、相撲の番付表のように立派な木製の、ゴルフ番付なるものが飾ってある。やはりカウンターに置かれたショーケースの中には、刺身を中心とする早出しのつまみが積み上げられ旨そうだ。主人の永見富治さん(六十二歳)に訊けば、ちょうどこの日、四月二十七日の朝日新聞、川の手版に、大きくこの店が採り上げられてたといって、親切に新聞を見せてくれた。北千住では、「大はし」と人気を二分する酒場らしいことを記事で知った。

魅力的な二代目と三代目
 主人の永見富治さんは、店では二代目と呼ばれていた。朝日新聞の記事によれば、十二年前に富治さんの母親のふでさんが八十三歳で亡くなるまでは、彼女がこの店の顔だったという。一代目は四十年前になくなったという親爺さんだろうか。二代目の富治さんは白い割烹着のファッション、禿頭にねじりはちまき、お客への気の使いよう、店のものへの指示の出し方全てに渡って、完璧な「大衆酒場の親爺」であった。このご主人の江戸っ子らしい気っ風の良さと、人なつっこい笑顔に引かれて常連客となるものも多いという。この酒場を舞台としている俳優のようだ。ご主人の活躍は店内だけに留まらず、千住七福神をつくろうと町おこしを考えたり、浅草三社祭で御輿を担いだりもしているらしい。

 三代目と呼ばれている若旦那の充氏は、年の頃二十代後半か三十歳そこそこの、まだナイーブでシャイな感じの残る好青年である。二代目のようにタオルではちまきをしているが、こちらはねじりはちまきではなく、よく若者がするようなバンダナ風に巻いたものだった。この親子、とても対照的だが、ふたりとも好感が持てる。今のような時代の変わり目には、年輩者が自信を失って、若者ばかりが目立つものだが、こうした酒場では、知恵と技と経験を持つ親爺さんが全てを支配している。善し悪しは別として、ちょっと前まで、世の中はこんな感じだったんだろうと、懐かしい気さえした。

絶品の千住焼きと鳥軟骨つくね焼き温泉卵付き
 料理の種類が半端ではない。これは町屋の常磐食堂に匹敵する数である。しかも、どれもが旨いという。私たちは、この店で一番人気の千住揚五百円、二番人気の鳥軟骨つくね焼き温泉卵付き四百五十円を頼んだ。両方とも絶品であった。千住揚げはこの店のオリジナルで、大蒜入り五百円と大蒜なし四百五十円がある。大蒜入りを頼んだら、直径五センチくらいの円形の練り物が三個乗った皿がきた。揚げたての矛矛の千住揚げを一口かじると、とても柔らかく、大蒜の香りが効いた汁がジュッと出た。材料は玉葱と葱のみじん切り、そして大蒜を加えて魚の練り物で固めたものを揚げたのだと思う。大蒜の辛さが効いている。とにかくも美味しい。出も一番美味しかったのは、鳥軟骨つくね焼き温泉卵付の方だ。味が濃いので好きずきだが、軟骨のコリコリした食感とつくね自体の旨さ。そしてこれに温泉卵のトロリとした黄身をかけ、濃いめの特製ソースの味とミックスして、最高の美味しさだ。この他にも食べたいものはたくさんあったが、今日のところは腹八分目、このあたりまでとした。

 酒は熱燗を頼んだが、これもなかなか良かった。広島の酒「酒将一代」の生酒六百円。湯飲みのような陶器の一合のカップになみなみと注れ運ばれてきた。どちらかといえば甘い酒だが、味がしっかりしていて、呑むほどに手応がある。勘定はふたりで二千五十円。町屋食堂ほどではないしろ、内容を考えればかなりリーズナブルだった。

多彩な料理
 この店の多彩な料理は、主人の永見さんが奥様と全国を旅して歩き、そのアイディアを探したものだという。地酒も多い。男山、高清水、一の蔵、初孫、旭山、米百俵、北雪、立山、真澄。どれも一合で五百五十円である。他の飲み物は、日本酒一代二百三十円、生酒六百円、ビール第四百五十円、生ビール大七百円、小五百五十円。ハイボウル三百三十円、ジャンボチューハイ四百九十円。料理は数多いが、価格は四百円から五百円のものがほとんどだ。げそあげ四百円、大蒜丸揚げ四百円、イカの一夜干し四百五十円、鯖の一夜干し四百五十円、鳥のスタミナ焼き四百五十円、バクダン奴四百五十円、鮪ブツ四百五十円、真蛸刺し五百円、鮪ゆっけ五百円、わさび白魚四百円、北塩らっきょう四百円など。オリジナリティの高いラインアップだ。日曜日、祭日、第三土曜日は休業。三時半から十時半までの営業で、土曜日は三時まで。またひとつ素晴らしい店に出逢い、嬉しい気持ちになる。ご主人の人を逸らさない笑顔がとても素敵だった。(志)
牧島酒店看板

ときわ食堂(町屋の下町元気酒場)
都電荒川線に大塚から三ノ輪方面に乗り、下町の住宅街の曲がりくねった線路を走る。荒川線沿いののどかな風景の中でひときわ大きいビルが建ち並ぶ町屋は、それでも近代的な都市景観を呈しているのは、京成線と千代田線と荒川線が交差している駅付近だけで、ちょっとはずれると下町らしい街が拡がっている。効果の京成線の架構の下には、不法占拠地のように住宅やら居酒屋などがぎっしりと建ち並んでいる。その架構の裏側には、銭湯やら連れ込み宿などが建ち、その幅一mにも満たない路地は香港の旧市街を思わせる。路地に切り取られた細長い空の向こうには、町屋のピカピカの高層ビルが建つ。その対比が、却って日常の東京とかけ離れて感じられ、ますますこの街への興味が深くなる。(志)
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テーマ:居酒屋 - ジャンル:グルメ

まきしま酒場(御徒町 老舗酒屋立呑み)
大正時代から続く酒店である。牧島酒店は御徒町駅を出て山手線より一本東より通りにある酒屋である。夕方ともなれ場、酒屋のカウンターに、地元の人、通勤帰りのサラリーマンがたくさん集まってくる。主人は小樽出身の70才。その年齢に見えない主人は開店の間、自分でも酒を飲み、集まった客と実にいい感じで会話を交わす。奥さんもカウンターに入る。チャッミーという名の猫が店の中をうろうろする。

この店で驚くのはその料金だ。ビールの大瓶370円というのは、まさに酒屋から仕入れる価格そのままだ。この酒屋では火を使わないので、全てつまみは「乾きもの」だが、これが侮れない。先日店に入ったとき、僕はビールを頼んだ後、つまみとして、さまの水煮の缶詰(300円)、湿ったグリーンピース(150円)、湿ったピーナッツ(150円)。どれも絶品と言って良い旨さだ。椅子は1脚もなく、ミカン箱を重ねたテーブルがおいてあるのみ。

酒は菊正宗の熱燗(270円)の他、八海山、補佐鶴などが300-400円で呑める。酒を飲んでいるうちに、段々とまわりが騒がしくなってきた。地元の客が何か歌を歌い、まわりの客達がそれをはやし立てる。そんな下町の共同体の感覚がこの酒場には残っている。(志)

店主

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body> このごろ酒場や居酒屋の本が充実してきました。私は太田和彦氏、吉田類氏、大川渉氏の本を愛読しています。中でも大川渉氏らの著した「下町酒場巡礼」は名著。紹介されている酒場の幾つかはこの10年間に姿を消しました。 https://www.fis.jfma.or.jp/fis/front/htm/research/scm10/image/scm10_2003wwp_dallas_illust.pdf