酒場遺産
ディープジャパン。今や都市開発の中で消えようとしている古くから続く酒場。日本の生活文化が凝縮されている酒場を「酒場遺産」と名づけた。これから十年後、ここで紹介する酒場のうちいくつが残っているだろうか。
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田中屋(荻窪北口 昔酒場でくつろぐ)
ディープ度***、食と酒***
酒場好きにとってはこの上なく魅力的な荻窪北口バラック街。烏賊料理の「やき屋」、焼き鳥の「かっぱ」、駅前で昼から濛々と煙を立てる「鳥もと」。このエリアの一番阿佐ヶ谷寄りの名店「田中屋」を知る人は少ない。白いペンキ塗りファサード、白い暖簾。引き戸を開けると右手に分厚いカウンターがあり、常連客が3-4人くつろいでいる。女将にいつから店をやっているか訊くが、50年くらいかねえ、と言う。瓶ビール520円。この値段から料理の値段もわかるだろう。どれも家庭料理のような暖かみがある。ふと見ると、天井から蠅取り紙がぶら下がっていた。懐かしい空気の名店だ。

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やき屋 (中野南口立呑み屋)
★ディープ度**、食と酒**
中野駅南口から中野郵便局へ続く道を下ると、左手に中野郵便局とラブホテルに挟まれて赤提灯が幾つか並ぶ。店は平面は「くの字型」の変形プランである。小さなキッチンと窓沿いにカウンターがぐるりと回る。店はキッチンを含めて10畳ぐらいだろうか。その小さな空間に、客が20人くらい犇めく。客層も様々。偶然隣りで呑む客と話も弾んだ。
この店は荻窪北口バラック街の烏賊の銘店「やき屋」と兄弟店である。荻窪「やき屋」の女将さんとこの店の店主は夫婦なのだ。店主は愛想良く客に話しかける。荻窪の店と酒は「北の誉」で共通。塩辛も同じ味で薄塩の絶品だった。それから手羽先焼き(180円)がこの店の自慢だ。それ以外はこれといって特徴もないが、気楽で楽しい立ち飲み屋だった。
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富士(荻窪北口バラック大衆食堂)
★ディープ度**、食と酒の満足度***
荻窪北口商店街。荻窪北口バラック街の古色蒼然としたアーケード。その中ほどに富士食堂はある。以前、丸の内線から中央線に乗り換え帰宅の途中に、時々この食堂に立ち寄った。日替定食、肉豆腐定食、焼き魚定食、野菜炒め定食など、450円から700円くらいで良心的。天井からつり下げられた古く小さいテレビを見ながら、麦酒を傾け定食でも食べていると、何十年前かに戻った錯覚を憶える。料理は美味いが、時々飯の炊き方を間違えるのか、極端に柔らかいときがある。店主らしい痩せた髭の男が、気の抜けたような声で厨房にオーダーを掛ける。

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やき屋(荻窪北口バラック絶品立呑み)
★ディープ度*****、食と酒*****
荻窪北口の線路沿い一角のバラック街。ここには実に魅力的な店が多い。その中でもひときわ素晴らしい店を見つけた。立呑み屋「やき屋」だ。酒は小樽の銘酒「北の誉」燗230円。その他、麦酒中瓶380円、ウーロンハイ230円、ホッピー300円など。驚くべきは全品150円という烏賊料理の数々だ。いか刺身、みみ刺身、いかげそ、いか軟骨焼き、いか込み焼き、げそわさ、珍味わたあえ、いか大根、いか納豆・・・。その他、煮込み、しめ鯖、鰻肝焼き、お新香なども絶品。特に、いか大根は烏賊のわたが芯までしみこんだ大根が絶品。もし全品500円でも高い気がしないだろう。レアな烏賊料理だ。東京のベスト酒場。マスターと女将も暖かく素敵な大人だ。
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カッパ(荻窪北口バラック カウンターでヤキトリ)
荻窪北口バラック街の中。雪がちらつく寒い夜に訪れた。こんな寒い日でも引き戸は開けられて、外気が入ってくる。それがまた良いのだ。焼き場を囲む10人程度がやっと座れるコの字型のカウンター。煙で燻され飴色になった天井や壁。コンパクトでよく考えられた美しい店空間だ。常連客が多いが誰でも気楽に立ち寄れる。若い女将がひとりで手際よく仕切っていた。メニューはヤキトリのみとシンプル。カシラ・ガツ・シロ・レバ・タン・ハツ・トロ・マメ(腎臓)・リンゲル(膣)・ホーデン(睾丸)・チレ(脾臓)など。刺しでも頼める。飲み物は瓶ビール(大540円・小370円)、熱燗(1級330円・2級270円)、焼酎(280円)、デンキブラン。店の空間が魅力的。シンプルイズザベスト。
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鳥もと(荻窪北口バラック)
 JR荻窪駅で降り、北口へと階段を上がってすぐ左側に「鳥もと」がある。大きく鰻と焼き鳥と書いてあるが、もっぱら焼き鳥を出す店である。中央線沿いに住んでいたので、丸の内線沿線で仕事があるとその帰りに、よく荻窪で乗り換えこの店で酒を呑んだ。古くなった緑色のテントの下は、ビニルカーテンに覆われた半外部的な空間で、夏は夜風に吹かれながらのビールと焼き鳥、冬はもうもうと立ち上がる鍋の蒸気と焼き鳥の煙りに包まれながら焼き鳥と熱燗で一杯、というのが楽しみだった。 (志)
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[鳥もと(荻窪北口バラック)]の続きを読む
いせや本店(吉祥寺創業七十年酒場仕舞屋風)
 吉祥寺連雀通りの「いせや本店」である。アップタウン吉祥寺の連雀通りを井の頭公園方面へと歩くと、駅からほんの2分ぐらいの距離に、休日の真っ昼間からもうもうと焼き鳥の煙り立つ「いせや」の雄姿が見えてくる。瓦屋根に立派なつくりの割に崩れそうな木造2階建ての純日本風の建築である。(志)
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[いせや本店(吉祥寺創業七十年酒場仕舞屋風)]の続きを読む
幸兵衛(立川錦町極小空間 絶品焼豚)
国立から羽衣商店街を立川に向かって歩いていると、偶然に昼間から扉を開け放している居酒屋が目に入った。目に入った同時に、これは本物だと直感した。比較的新しいビルの一角に入っているのだが、本物の酒場のオーラが立ち上っていたのである。ビルの角の1階の非常に小さなスペースで、男達五~六人が昼から酒を呑んでいた。

しばらく店の外から中をうかがってから、暖簾をくぐってはいると、カウンターに座っている、酒でかなりいい気持ちになっている紅一点の姉さんが「何か怪しい人かと思ったよ。この人なんか顔を隠していたんだよ。」と言って、カウンターで競馬中継に夢中になっている男のひとりをからかう。私は、常連ばかりが集まるというこの店に突然入った。こんなことは珍しいのか、初めはお客さん扱いだったが、段々と酒が入りうち解けていった。「この店は立川で一番汚い店なんだ。」と客のひとりが自慢げに言う。

 カウンターの女将さんは六十歳くらい、以前は毎日開店していたのだが、体をこわしてから、土曜日と日曜日しか開いていない。営業時間も大体昼頃から、夕方はお客がいなくなったら閉めるんだよ、と言う。客は、ほとんど常連ばかりで、男は全員ギャンブラー、この時も五人の五十ー六十歳の男達が、野球帽を被って、中山卯月ステークスのテレビに向かって熱狂していた。ひとりカウンターの端に座っていた「紅一点」の姉さんも同年代で、近くでお好み焼き屋をやっており、女将さんとは息子が同級生だったとかで、この店の常連になっていると話してくれた。

三畳の極小空間
 この店の空間について触れたいと思う。店の広さは三畳ちょうどくらい。空間構成には全く無駄がない、と言うより、よくこれだけのスペースに厨房、収納、カウンター、八座席を詰め込んだものだと感心した。建物の角にあり、二方が道に面した開口となっている。カウンター席はL字型になっており、カウンターの席に座るのは、道から直接出入りしなければならない。季節がよいこともあってか、建具は開け放してあり、店と街の空間は一体化している。都市空間と内部空間が狭いが故に、図らずも一体感を持って、それがまたこの店の空間的な魅力となっている。

 それでもこの店の造りは、決して安普請ではない。小さな空間にしっかりと造り込まれた造作はキチンと計算されたもので、無駄がない。初めにつくりこんで、大切に使っていく。それは店の造作だけにでなく、料理への対応、お客に対するサービスにも通じるものと見た。魅力的な酒場は、どれほど古くなっても安普請の改装などせず、良いものを磨き込んで使い、時間の蓄積を味方にする。「古い、安い、旨い、媚びない」が、魅力的な無頼酒場の条件ならば、この「幸兵衛」はその見本だ。最小限の空間で、手を広げ過ぎず、自身のあるものだけを出す。カウンターに並ぶ女将自慢の惣菜、煙で燻されたメニューの木札、どれもとても素敵だった。

 店には当然のことながら客用トイレはなく、一旦店を出て、すぐ左に回ったところに、道から直接入るつくりになっているトイレがある。思い鉄の扉を横に引けば、そこに便房がある。氷も目の前のコンビニに買いに行く。しかも女将が買いに行くのではなく、常連のひとりを店に走らせる。焼酎をロックで飲む客はあまりいないのか、収納を減らすためか、すぐに溶けてしまう氷などおいていない。とても合理的でよく考えられている。狭いが故に、店で完結せず、街の機能と空間を上手に使っている。これが店の魅力になっているから面白い。

絶品の料理
 幸兵衛の料理はどれも絶品である。大袈裟ではなく、こんなに美味いものを出す酒場には滅多に出逢うことはない。メニューは数が限られていて、お通し三百円、焼き豚百円、焼き魚五百円のみである。飲み物はビール、ウイスキー、日本酒である。私は焼き豚を計四本、焼き魚にビールと焼酎のロックを呑み、勘定は二千円を超えなかった。出るときには、無料の梅干しをいくつか戴いた。モア・ザン・リーズナブルである。

 絶品の料理について説明したい。まずお通しだが、これはタケノコと蕗を煮込んだもので、特にタケノコは大切りにも関わらず、味が良く染みこんでいる。美味しい。焼き魚は、あまり見たことのないもので、女将さんに何の魚ですか、と訊いても、何だったかねえ、美味しそうだったんで市場で買ってきたんだよ、といった具合だ。しかし実際、その魚はとても美味かった。カウンターに、今日の分だけ十尾くらい積み上げてあった。

 女将が、焼き豚は塩とタレとどっちにする、と言うので、いつものように「塩で。」とたのんだ。すると、酔った男のひとりが「何で塩にしたんだ」と絡む。「素材の味が良さそうだからよ。」と答えると、馬鹿言っちゃいけない、ここの焼き豚はタレに決まっているんだ、と言う。それなら、初めからタレだけ出せばいいじゃない、と思ったが、結局、塩とタレと両方を頼んでしまった。

八四歳の一代目がつくる秘伝のたれ
 焼き豚は、塩も確かに素材の旨さを引きだしていてかなり旨かったが、男の言うとおり、タレはそれこそ絶品であった。「何、このタレは!」と言うのが初めの感想である。甘くなく、香辛料が利いていて、味が深い。初めは、酒を加えているのかなと思い、そう訊いてみたが、酒は入っていないと言う。何でも、この女将さんは二代目で、八十四歳になる一代目の秘伝のタレなのだという。女将さんもその作り方はよく知らず、今でも一代目の母親から貰うのだという。

 一代目は、高齢でもまだ現役で、多摩でもう一軒の「幸兵衛」を開いている。立川から新しくできたモノレールで多摩動物公園行きに乗り、帝京大学で降りて住宅地を五分ほど歩いたところにあるらしい。こちらの方は、日曜日以外夕方の五時から十一時まで開いていると言う。電話を教えてくれた。0426-77-6331。今度行ってみることにした。

戦後の創業から区画整理へ
 女将とカウンターの姉さんから、この店の成り立ちについて訊いた。店の創業は、今帝京大学で二軒目の店をやっている一代目が、戦後すぐに始めたものである。この店の場所から東側は、GHQの指定地であった頃である。しかし、店の客にアメリカ人はほとんどいなかったという。店の前の通りも、今は十m近い幅員があるが、当時はほんの二メートルの狭い道だったらしい。木村聡「赤線跡を行く」(ちくま書房)によれば、立川には戦後ふたつの進駐軍向けの接待所(RAA=Relaxation and Amusement Association)があり、当時、州崎(現在の江東区木場当たり)の大手の遊郭業者がこの地域に入り込み、設けたものであるという。この後にカフェー指定地となり、二十四軒の遊郭が軒を連ねていたという。この店は立川の米軍基地から、遊郭街へ続く道沿いにあったので結構、繁盛したらしい。当時は二軒先の下駄が大家の木造二階建ての建物の一角にあったが、二十年前の区画整理を機に、現在の鉄筋コンクリート造のビルに建て替えられ、道も拡がり街の様相は一変した。

 その頃、二代目が引き継いだと言うが、それ以来、二代目女将も店の常連客も、メンツが変わっていないらしい。木造二階建てだった当時から来ていたらしく、皆つい昨日のような調子で話す。

 「当時はみんな若かったよなあ。」と誰かが言う。歳をとっても、みんな野球帽を被って、少年のようにワイワイガヤガヤ楽しそうだ。みんな、見たところ五十~六十歳代だから、二十~三十歳台の頃か。永い時間を超えて、今でも当時の空気を残している。女将と常連達のための空間が、そのまま彼らの存在と共にここにある。

 この店の前を通りかかったときに、確かに何か訳の分からないオーラを感じた。そしてこの店には、開発の進む立川の街からタイムスリップした時空があった。その空気が街に滲み出していたのだ。(志)
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一平(立川錦町一丁目場末酒場)
立川錦町の細い商店街は、立川駅と国立駅の中間にある。商店街と言っても、小さな飲食店や美容室などと、その間に場当たり的に建てられたマンションやアパートが混在する、場末の雰囲気を漂わせた細い道である。立川駅南口から東へ向かい、広い羽衣大商店街を歩き、薬屋の角を斜め左の錦町商店街に入ったあたりは、戦後GHQの指定地域であり、その後、昭和三十三年に売春禁止法が施行されるまで、いわゆる赤線として受け継がれた場所である。今でも、昔風の洒落たカフェー風の建物が残っていたり、花柳流の稽古場があり、過去の記憶を僅かに残している。

取り残された一角
 錦町商店街を立川側から歩くと、途中、黄色い電車の南武線の踏切があり、それを越えると「日本自動車学校」という立派な名前の自動車教習所がある。その敷地内には、古ぼけた「最上食堂」が立つ。すぐ横を赤い中央線の快速が走る。錦町商店街の一帯は、開発著しい立川と、学園都市の国立に挟まれていながら、開発から取り残されているように見える。太い表通りには、背の高いビルが建ち並び、日照が遮られ、また中央線と南武線の軌道敷きに囲まれた騒音の酷い不人気な場所なのだろう。エアポケットのように、周囲から取り残されているように思えた。

 週末、時々近所を散歩して飲み歩く。錦町商店街は国立からほど近く何度か歩いたことがある。この通りと交差する路地沿いには、今にも崩壊しそうな四件並びの背の低い居酒屋があり、ずっと気になっていた。日も暮れたある日、立川からの帰り道、四軒のうち三軒にはあかりが灯っていた。昼間とは違ったオーラを発していた。その三軒の構えを見比べ、一番妖しいオーラを発している、左端の店「一平」に入る。「ビール五百円、日本酒四百円、その他各種お飲物あり。おつまみ三百円より各種。その他お客さまのご要望に応じて料理をお作りします。一平のお店にいらしたお客さまみなさまが、よいお友達になって下さい。そしてあなた様の生活が今以上に楽しく、また向上してくださることを願います。一平」

昭和二十六年創業
 狭い間口の一平の引き戸を開けようとするが、なかなか開かない。扉は割れたガラスを半透明の波板版で応急処置したままの状態で、戸車がレールに乗っていない。そもそも最近の店で、こんな戸車の引き戸は珍しい。ガタガタと、どうにか木戸を開け中にはいると、主人がやってきて、「すみません。私が閉めますから。」と言う。中は今にも倒れそうな店構えに比べて小綺麗な造りであった。右側にカウンターがあり、座れるのは最大五人。左側には畳の小上がりがあって四人まで座ることができる。カウンターはしっかりした造り。カウンター内の棚はベンガラ色に塗られ艶めかしい。

 この店は原田さん老夫婦が経営している。カウンター内で奥さんが、料理をつくっており、ご主人の原田さん、田園調布から来たという五十歳くらいの男、そして常連の老女がカウンター席に座って酒を飲んでいた。一番活発な男の客はしばらく主人と話した後、電車がなくなるからと帰っていった。そしてその後、焼き鳥と日本酒をゆっくり飲みながら、この店の歴史について聞いた。

立川南口馬券売り場にあったバー
 ご主人によれば、この店の前身であったバーは、今のJR立川駅南口とこの店の中間あたりにある馬券売り場、現在はのWINDSのあたりにあったという。道幅も狭く、たった二mほどだったらしい。その場所で戦後間もない昭和二十六年から、九人のホステスを抱えるバーを経営していたというから、かなり羽振りが良かったはずである。九人のうち三人は住み込みだったという。

 当時、立川錦町・羽衣町はいわゆる指定地であったから、米軍のお客を相手にしていたのだろう。現在七十歳を越え、穏やかでいい味を出しているご主人の原田さんも当時は遊び好きで、遊郭に通い詰めたらしい。「僕もいろんなことがあってねえ。」というご主人の話に、カウンターの奥さんは動じず渋い顔を崩さない。そして道路拡幅と区画整理で立ち退いた後は、現在の店がある元赤線地帯であるこの場所が、代替地として与えられたという。昭和六十年のことである。

 それ以来、二十年近くこの場所で店を構えてきた。ご主人に話では、南武線の踏切の手前からこのあたりまでが錦町の指定地、向こう側が羽衣町の指定地で、錦町の方がランクが少し上だったらしい。羽衣町はその後の開発で、当時の面影が全くなくなっているという。

一杯の美酒 平素安泰
 カウンターの後ろには、ご主人の書いたらしい色紙「一杯の美酒 平素安泰」が額縁に入っていた。若いときに遊び尽くしたご主人がこの小さな店へと移り、それから大事にしてきたものが、お客にとっての安息の場であることだという。人と人のつながりを大切にし、ご主人は「一平の会」というグループをつくり、多いときは百人を超えるメンバーで、季節ごとにバスをチャーターして旅行を企画したという。

 現在、「一平の会」は十数人に縮小してしまったけれど、それでもこの小さな店に来ていただいた客は、誰でも精一杯歓迎するのだという。そう話すご主人の笑顔はとても柔らい。私は何となく、この店を教会のような存在だと思った。私も二十歳代の頃、よく異国を旅したが、どんな場所でも教会だけは見知らぬ旅人を拒まずに受け入れてくれた記憶がある。そうした安息の場所が存在するというだけで、心が強くなるものだ。私自身はクリスチャンでも何でもないが、教会がどこにでもある西欧の国々を羨ましいと思ったことがある。「一杯の美酒 平素安泰」は、場末の小さな店ながら安息の場でありたいというご主人の想いを、精一杯に表しているように思えた。

延寿鶴とつまみ
 私たちがこの店で食したのは、マグロ刺しの突き出し、ハツ焼き四百円、塩辛二百円であった。そして「延寿鶴」という初めて聞く名前の酒(1合四百円)を熱燗で3合ばかり飲んだ。マグロの突き出しは赤身だが、上等なものであった。ハツ焼きは鳥のハツを油で炒めた家庭料理風にもので、素朴だがさりげなく旨かった。塩辛はスーパーなどで売っているビニル詰めのものだったが、一袋分丸々皿に盛ったので5人分くらいの量があった。これで二百円は、恐らく原価と変わらないだろう。特に旨くはなかったが、その素朴さが嬉しい。熱燗の延寿鶴は辛口端麗。銘酒とまでは行かないが、結構いける酒だ。ラベルを見ると茨城県に蔵元があるらしい。銘酒、アップにも載っていない酒だが、なかなか旨い酒だった。念のためインターネットで検索してみたが、該当するものはなかった。

 約二時間、酒とつまみを食し、主人夫妻と話しながら過ごしたが、勘定はたったの千五百円だった。お客は他に二人のみ。先に帰った男の勘定は千八百円だったから、一日の上がりはいくらなのか。そんなことを心配しても仕方ないと思うが、老夫婦がどうにか生きていけるだけの稼ぎはあるのだろうか。羽振りの良かった頃から段々と細くなって、いずれ消えゆくだろうこの店と一緒に、この老夫婦も消えていくのだろうかなどとと考えていたら、何だか悲しくなってきた。

男は放っておきなさい
 ご主人との話が、カウンター隣に座っていた女性に主人が話しかける。カウンターで渋く料理をつくっていた奥さんが急に能弁になった。「あんた、男はどんなことをしても好きなようにしか生きないんだよ。放っておくのが一番。」と言う。傍らのご主人は、参ったという顔で笑っている。人生いろいろあるからさ、あんまり喋らなくてもいいんだよ、と言う。何十年も山あり谷ありの時間を超えて、それでも夫婦であり続けているふたりの数少ない言葉は深い。

 永い時間を経て、この小さな店に至るまでの時間。それを思うと、この店がご主人夫婦の人生そのもののように感じられた。(志)
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最上食堂(立川羽衣町教習場食堂)
自動車教習所に建つ食堂
 以前、国立に住んでいた頃、よくこの道を散歩した。いつもその存在が気になっていた、モルタル造二階建ての古ぼけた建物である。教習場の前の通りには、「慶弔料理、お赤飯、オードブル、何でもあります 最上食堂」「一般の方もお気軽にお入り下さい。麺類・丼物・定食、何でもあります。ここを入る」の看板が建っていた。その佇まいからして、教習場に通う若者達が絶対に入りそうもない食堂である。この自動車学校は最近建て替えられたと見え、白系のタイル張りと大ガラス面が、いかにも近代的な様子で、このビルと横に並んでいる食堂のみすぼらしさが際だってしまう。

 実際、この食堂に三回訪ねたが、一度目は日曜日で休業、二回目は営業時間前で入れず、三度目の今回は少し遅めに言ったが、ちょうど今終わりましたと、二時過ぎに店を閉めようとしているところだった。実際この食堂は、営業時間が毎日十時半から二時までの間で、教習所の生徒の昼食を宛にしているようだが、工夫して儲けようという気など、全くないのだろう。私は、「今日で来るのが三度目なんです。」と言うと、暖簾を下ろしている若い従業員の女が、「ご飯がないんです。でも何かあると思いますが、いいですか。」というので、「ありがとう。」と礼を言い、店に入れてもらった。念願の最上食堂なのだ。

化石のような存在
 中にはいると、そこはまさに昔ながらの「食堂」であった。照明は暗く、中央に安物のテーブルが寄せて十台ほどおいてある。このライン場のテーブルの両側に丸椅子がザーと並んでおり、要は向かい合って座るようになっている。体育会の合宿とかで、向かい合わせで一団が座るような形式だ。これだけのスペースがあれば、テーブルをばらして置いた方が、客同士の視線もあわないし、何と言ってもお客のキャパを考えれば、誰だってそうするだろうと思う。この飯場のようなレイアウトは、何のためなんだろうと、不思議に思った。何十年の間、この食堂の人達は、何も不思議にも思わず、放置し続けてきたんじゃないだろうか。そしてやけに広い厨房。これだけのキャパならば、二階にある席を含めても、普通ならば、現在の広さの半分以下でも十分だ。仕出しでもしているのだろうか。でもそんな雰囲気ではない、というか厨房で働いている老婆二人と若い女の子ひとりでは、どうしようもないだろう。

 食堂の中には売店らしき物があり、長い間ここに置いてありそうな、色褪せた菓子類や日用品が並んでいる。よく地方の町の萬屋にあるような雰囲気だ。そして、壁にはおびただしい数の表彰状が飾ってある。よく見るとそれらは全て、警視庁からの感謝状など、警察関係ばかりであった。そう言えば、この食堂について電話会社で名前を調べていた時に、立川警察署の中にも最上食堂があった。恐らく警察とコネの強い食堂なんだろう。考えてみれば、自動車教習場も警察の管轄だ。この食堂の持つ、「場末感」のようなものを、やはり警察関係で感じたことがあることを思い出した。それは、以前、免許書き換えの時に訪れた府中の運転免許試験場近くに並ぶ代筆屋だ。教習場の回りには、たくさんのバラックのような代筆屋が並んでいて、免許書き換えの時など、その客寄せまがいの強引な呼び込みに閉口したことがある。恐らく彼らも、警察OBか警察に関係のある業者だろうが、ここと同じような臭いがあったことを思い出す。それは、一言で言えば、「暗さ」である。その暗さが、警察のまわりに漂うものなのか、たまたまそうだったのかは分からない。ただ、世の中に吹く風がここまではまわってこないような息苦しさと、禁欲と忍耐の末の諦めのようなものが、この空気をつくっているんじゃないかと漠然と考えていた。

 食堂に入ったときには、天井近くに儲けられた一台のテレビで、最近封切られた「浅間山荘事件」の関連番組がちょうど流れていた。これは、元警察官僚の佐々淳行氏原作による警察と機動隊の視点から書かれているノンフィクションで、そこに描かれている警察の空気が、ちょうどこの食堂とだぶって見えてきた。たまたまテレビで出演したのは、佐々の他、当時の指揮官の警察官僚と思われる人達であった。そうした面々とは対照的に、制度の隅で抑圧され、永い時間、澱のように溜まってしまった名もない警察官達の行き場のない気持ちの集積が、そうした暗さの源となんじゃないか。一瞬、そんな理由のない妄想に憑かれた。

老婆のつくるあり合わせの料理
 厨房で働くのはふたりの老婆である。恐らく定食か何かの余り物だろう、このところは見たことのないような、アイボリー色のプラスチック製の二つの皿に、色々な食べ物が盛りつけた合った。すっかり冷えた固くなった餃子、冷えてしまった鮪の切り身の焼き物、納豆、漬けすぎたお新香、白身魚のフライ、ちょっと変わった海苔の佃煮、ソース焼きそば。これらが少量ずつ盛りつけてある。出汁巻き卵だけは、結構美味しい。そしてご飯と、少し冷えたみそ汁。よく言えば家庭料理っぽく、悪く言えば工夫のない料理であった。でも、閉店時間後に入れてくれた、缶ビールを飲みながら、小一時間、浅間山荘事件の番組を見ながらくらい食堂で時間を過ごした。

 最上食堂は、料理を運んできた老婆に訊けば、「三十年以上はたってるよ。」というが、恐らくもっと古い歴史があるだろう。感謝状の横に、昭和十九年五月、鈴木金三郎を勲六等(宮城)とする、と書いてある天皇陛下による勲章の状がかけてあった。鈴木金三郎がいかなる人物かは分からないが、この食堂に関係のある人物なのだろう。老婆に訊いても、あまり語りたがっていないようだった。礼を言い、勘定の千四百円を払い食堂をで出た。何故かホッとして、新鮮な空気で深呼吸をした。(志)
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body> このごろ酒場や居酒屋の本が充実してきました。私は太田和彦氏、吉田類氏、大川渉氏の本を愛読しています。中でも大川渉氏らの著した「下町酒場巡礼」は名著。紹介されている酒場の幾つかはこの10年間に姿を消しました。 https://www.fis.jfma.or.jp/fis/front/htm/research/scm10/image/scm10_2003wwp_dallas_illust.pdf